「レヌカーの旅」紀行文 コーヴィット禍が続き、以前のような旅ができなくなって、2年近くの月日が経った。人類を襲う病原菌との闘いは、長期戦である。世界各地に散って、そこでの闘いから、様々な特性を獲得して、変化した菌はより強力になっていく。それに追いつこうとする人間たちは、この競争に勝てるのであろうか。もしかしたら、この戦いには終焉はないのかも知れないと思うと、寒気が走る。これからの私の余生は、身体を張って、両手両足をふんばって、病原菌を「囲い込み」しながら生きるだけ生きる・・・ことになるかもしれない。 いままでのような旅は、もうできなくなるかもしれない。少なくとも、今は その見通しはたたない。哀しい思いに囚われながら、来た道をふりかえると、懐かしい「レヌカーの旅」の世界がはるか遠くまで広がっている。あぁ、私には こんな宝物があった。 コーヴィット禍でひまをもてあます時間がある間に、そして また私が「幸せな健忘の世界」に遊ぶようになる前に、レヌカーのお宝を磨いてみようかという気になった。思いついたら、すぐ実行したくなるのが、私の性分である。相手にされなかったら、どうしようかなと、内心びくびくしながら、「めこん」の桑原晨社長に電話をかけたら、なんと「やりなさいよ。出してあげますよ」と頼もしい返事を得た。私が書きたいと言ったテーマは、「泥海からケスタを越えて」であったが、桑原氏はそれに「チャオプラヤー河から メコン河まで」の副題をつけてくださった。「タイだけでは小さすぎますよ」「そうね。タークシン王とハーティエンのマク氏親子 それにラーマ1世とザーロン帝がからんで、ベトナムとシャムが同志だった頃の話も書きたいわ」ということになった。 レヌカーの旅は 東南アジア大陸部から始まり、島嶼部、インド亜大陸、スリランカ、ヨーロッパに及び、アフリカ大陸のエジプトには実に7回も旅した。今回の「お宝磨き」でも、クメール帝国アンコールへの旅が一つの山となるが、アンコールの話はジャヴァ島のボロブドゥール、ベトナムのミソンなどのチャム遺跡から同時代のインドはエローラのヒンドゥー石窟に及ぶ。飛ぶのではない。つながりをたどるのである。「レヌカーの旅」では、まずアンコール遺跡を見て、バンティアイ・シュレイをしっかり学んでから、エローラの第16窟カイラーサと第24窟を理解した。さらにチェンナイ近くのマハパリプラムのラタを訪れれば、バンティアイ・シュレイ寺院を建てたバラモンがインドで何を見て、何に倣ったかがに思いを馳せることができるのだ。 宝磨きのエッセイの題は「チャオプラヤー河から ケスタを越えて メコン河まで」であっても、私の論理というか、伝えたいことは、海を渡り、大陸を越えて、続く。視野は大きく広くなっても、それを見る視点は変わらない。視点はあくまでも 「シャム湾の泥海のほとりに棲み 当地に残るインド古代文化の影響に目を開かされ、クメール帝国西漸の遺構に親しんだレヌカー」のものである。 思い出の景色:泥海、マングローブ、すいた 目をつぶれば、まだ若い私を驚かせたのは、はじめて見た東南アジアの河の姿であった。あれは飛行機がカンボジアへ入った頃であったであろうか?広く続く一面の緑の中を蛇行する赤茶色の大河が目に入った。あれが東南アジアの河なのか。 その驚きは、やがてバンコクに住むようになってから夫に連れて行ってもらったチャオプラヤー河口の風景に続く。ここがパーク・ナーム(河口)だと言われても、どこまで河で、どこからがシャム湾なのか判別がつかない。砂浜などはない。一面の泥沼が続き、河だか海だかしらないが、岸辺近くにはべったりとマングローブ林が広がっている。杭上に板を渡して、椰子葉で屋根を葺いたレストランで昼食を食べた。潮が引いて、ムツゴロウか、トビハゼか穴から出てきた。頭上にとび出た丸い大きな出目でこちらを見る姿は愛嬌があったが、「皮をむいて、唐辛子で炒めると美味しい」という話には耳をつぶった。 「レヌカーの旅」を始めてから、シャム湾の泥海の中で「すいた」を漕ぎ、赤貝やひらめの子を採ったこともあった。まだ甲羅の柔らかいカブトカニの仔は 泥の中に放してやった。小さな子供たちが「すいた」に乗り お父さんが押して始まった旅も帰りには、泥海に慣れた子供たちが自分たちで漕ぎ、先に波止場に着き、後に続く「重い父さん」を待つのが微笑ましかった。 思い出の景色:ブリーをたずねて 泥海のもとは、川が運んでくる泥である。潮がひいても泥に埋まらない地点に、古代都市は造られた。今でも、シャム湾に注ぐ河の口から60キロほど遡ったあたりにブリーという語を尾につけた古代都市跡が点在している。「レヌカーの旅」は、「ブリーをたずねて」から始まったとも言える。インド文明は、亜大陸の諸センターから、さまざまのルートで東南アジアに流伝した。グプタ美術のガンジス河流域からベンガル湾を渡り、ミャンマーの海岸つたいで、「スリー・パゴダ峠」を越えた。コロマンデル海岸を越えて 対岸のマレー半島に着き、山越えでシャム湾の港には運ばれたのは、ナーガジュルコンダの古代仏教美術にカンチープラムのパッラヴァ・ヒンドゥー美術、オリッサの仏教美術を加えようか。 シャム湾の旧海岸線に沿うというか、潮の満ち干きの影響を受けないあたりに陣取るブリーは、ペッブリー、ラーブリー、スパンブリーのウートーンにしても、独特の景観をもっている。無定形の掘に囲まれた都の背後に白い石灰岩の山があり、聖が住んでいたり、寺があった跡があることだ。仏教信仰、ヒンドゥー教の神像の多くはグプタ美術の影響を示している。住民がモン語を使用していたことが碑文などから推察されるが、こうしたブリー群は10世紀以降は西漸するクメール帝国に組み入れられていく。 クメール帝国の駅市から複数のタイ族都市ムワンが、発達・独立し、スコータイ、チェンマイそしてアユタヤーが生まれる。ムワンの景観、泥海に生まれた交易都市アユタヤーについては、本文でゆっくり書かせていただこう。 そのアユタヤーが隣国ミャンマーに再度敗北し、灰燼と帰したのは1767年4月。トンブリー朝を経て、1782年4月 バンコクの地に王都クルンテープを再興したのは旧都アユタヤーに住み、王に仕え、その栄華を知る者たちであった。アユタヤーの継承者として、西、北、南へ、東北へ、拡張し、領土を広げたバンコク王朝は、外地に殖民する民は持たず、ベトナム、ラオス、北タイから捕虜を強制連行して、人口増大を狙った。住民の少なかった旧ブリーに殖民させられた捕虜たちは、故郷で営んでいた手工芸を新しい地でも営み、古代ブリーの部落は、手工芸の村として生き返った。1990年代、日本の1村1品運動にならって 成功したタイの地方手工芸織物の花形たちは、3,4代前に遡れば、バンコク尾王朝によって連行された捕虜たちである。 仏教美術の伝来路:コーラート高原の寝釈迦と花みょうが ブリー群を鑑賞した後は、インドから美術が流伝した道を伝って、チャオプラヤーを遡り、分水嶺を越えて、コーラート高原に上る。高原の先端に立って、西を見れば中部タイ、東を望めばメコン川、その向こうはラオスである。シーサケット県からカオ・プラ・ヴィハーンに登ると、今はカンボジア領であるが、コーラート高原の南端に立つことができる。カンボジア大平原を見下ろし、幾重にもなって、両脇にそそり立ったケスタを目におさめながら、はるかに見えるアンコールの都に涙したことは、忘れられない思い出である。 コーラート高原の旧道には、古代からの寝釈迦像が残されている。寝釈迦の道は コーラートから旧道を通って、コンケン、カラシン、メコン河近くまで達し、カンボジアのクレン山のプレ・アンコール様式の丸彫り像で途絶えている。このシリーズの寝釈迦像は 私が知るだけでも六体派残っている。丸彫り像も浮彫り像もあるが、どれも手枕にした右手の三本指を頭部後に立てているのが特徴である。インドでも、ミャンマーでも、完全な姿の古代寝釈迦像は残存せず、右手の三本指を立てた像にはお目にかかっていない。 コーラート高原と言えば、地勢と地質の旅は毎年 5,6月に行っていた。これはタイ国鉄コーラート線に乗って スーンヌーン駅で降りるから、「コーラート高原の旅・表」という名で広告していた。コーラート線は ゲーンコーイ・ジャンクションで本線から別れる線がある。この鉄道は、パーサク川に沿って北上し、ラムナラーイの先でコーラート高原の旧道205号線脇を登り、ブワヤイで本線と交わる。これは「コーラート高原・裏」である。チャイヤプーム県のヒンガーム国立公園を訪れる旅で 人気が高い旅であった。これもケスタ地形の端まで行くのだが、険しい岩原に頭を曲げながら育ったフタバガキ科のテン・ラン樹の疎林の下生の花みようが 雨に誘われ、蘭に先駆けて、咲き出すのだ。花だけではない。奇岩と銘木、そして下から吹き上げる霧。その中で見る花みょうがの花群は 思い出しただけでも 身も心もよみがえる。 「レヌカーの旅」は、私の大切な宝である。どのデスティネーションを取り上げても、思いついてから、その地へたどりつくまでの経緯、感激、失敗と思い違い、更なる努力、一つの旅程にしあげるまでの過程、初回の旅に参加してくださった方たちの歓声、毎年何度も重ねて旅した地、季節をきめて歩いた道、同じデスティネーションへの旅に何度も参加してくださったリピーターの方たち。「レヌカーの旅」が始まっておよそ40年、幾つもの大陸を難関を越えて、一緒に旅してくださった方々は2本の手指にあまりある。 旅の始まり 「レヌカーの旅」について、少し書いてみたが、ここまで書いて、気がついた。私が旅を始めた理由というか、 なぜ旅をするようになったか、それを語っていない。レヌカーの旅の起点は、インドのニューデリーのアショーカ・ホテル。時は1964年8月31日、前年の同日 それまでのマレー連邦にシンガポール、北ボルネオ、サラワクが統合して、マレーシアが成立して1年目の祝賀パーティであった。以降は次回のお楽しみ。考えますね。どう書くか。 レヌカー・M |
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