「レヌカーの旅」紀行文
チャオプラヤー川から ケスタを越えて メコンへ(4)

ルーツもいいが、早く本筋に入ってよ!

・・・・・と、言われてしまいました。その発言というか、叫びには続きがあって、「レヌカ−さんはまだ時間があるだろうけれど、僕にはないんですよ。せめて、インドの話を聞いてから・・・」
いえいえ、私にも時間はありません・・・と身の程知らずの書きぶりを恥じながら、今 進行中の旅の構想を考える。旅の構想作りと下見と実施に沿って、同時進行の形でこの紀行文が書けたら、どんなに素晴らしいことであろう。当初は旅ができないから、替わりに紀行文を書くということで考えであったが、コーヴィットの嵐が少し静まって、野外勉強会という形で「レヌカーの旅」は再開されつつある。今がチャンスだ! がんばろう。

 桐畑のルーツ、キリスト教的社会主義者であった父方の祖父、祖母、伯父、伯母たちには申しわけない。母方の祖父母にあっては、何の言及もしていないから、あの世で苦笑していることであろうが、ごめんなさい。「さが」も「越し方」も、語るには及ばない。読者の推測、憶測にまかせよう。
レヌカーは敢えて、祖父母たちを足台にし、24年を一つ跳びする。

 生年は1939年12月であるが、1940年1月生まれと登録された秋山良子は、1964年7月19日、羽田国際空港からパリ行きのエアー・フランスに乗り、10時間の旅をして、インドはニューデリーのパーラム空港に降り立った。日本政府発行のパスポートは、黒の子羊キット皮に金文字を押した格調高いものであった。海外渡航が自由でなく、円をドルに換えて、持ち出すことが統制されていた時代である。

どうしてインドに行ったのか

1.奨学生試験

 そんな厳しい枠の中で渡航するのに、楽な道は渡航先政府の奨学生になることである。インド政府も毎年1,2名を奨学生として募集していたが、私がインド留学を思い立った1964年春にはなんと1名しかとらないというのだ。選考試験日に九段の大使館に行ってみれば、なんと10名近い若者たちが集まっているではないか。女は私一人であった。インド哲学とか、美術とか、私とはだいぶ畑の違う方たちでしかも皆知り合いのようなのも不思議な感じであった。試験の後でお堀脇の「アジャンター」というインド料理屋で皆さんと和気藹々の食事をともにした時に分ったのは。、誰もが選考試験の経験者で「今年は君あたりが行くんでは・・・」と皆にいわれていた方はすでに青年と呼ぶには、風貌からも、服装からも、相応しくなかった。私なんかだめだろうな、・・・だったら、別の国でインドについて学ぼうかなじつ?

 筆記試験は、「話の泉」的というか、実に愚劣な内容であった。「インドの国旗の真ん中に描いてあるのは何ですか?」「1ルピー紙幣は、幾つの言語で記されていますか」等である。「そんなこと知るかよ!」私は怒った。それで、面接試験には、かなり高飛車な感じで臨んだのであったが、 中年のインド男勢揃いの面接試験室で、24歳のヤマトナデシコの売った喧嘩はご馳走であったらしい。あんな問題だして 何よ。全部正解だって 何になるんですか? 私はどれも答えられませんでしたが・・・・大使館の試験官たちは、真面目であった。「話の泉」的問いには何一つ答えられなかった私が、ただ一人留学学生試験に受かったのは、インドの社会制度について、知識をしゃべりまくり インドにある社会現象は 特殊でない、日本にもあるのだとその普遍性を主調した態度を良しとしてくださったからであろうと思いたい。筆頭試験官のグーハ1等書記官とは、その前に何回かお眼にかかり、お話したことがあった。まだ駐在外交官の数も少なかった駐日インド大使館の中で、グーハ氏は文化担当の筆頭者であると教えてくださったのは、ICUでの私の指導教官でグーハ氏とはケムブリッジ時代からの友人であった。

2.ニューウェル教授

 ニューウェル先生は,父上が英国国教会の牧師であられ 英領インド時代にべナーレスで生まれた。ニュージーランド国籍(先生の弟は、先生とはあまり仲が良くなかったが、WH0の事務局長を長いこと務めた。)第二次世界大戦にも従軍し、気象飛行機に乗っていたと話された。その後、ケンブリッジに入り、かの社会人類学の父ラドクリフ=ブラウンの下で学ぶ。当時はグーハ氏ムブリッジで学んでいて、親しかったらしい。グーハ氏はインド外務省のチャイナ・スクール派であったが、ニューエル先生もかつて中国をフィールドにしようとなされた時期もあったらしいが、最初のフィールドワークと新中国宣言が重なり、それに盲腸炎の手術までして、ほうほうで脱出なさったらしい。その後、インドのヒマルチェルプラデシュシュ、マレ−大学で教えながら郊外の福建省人コミュニティを調査し、英国に戻り、マンチェスター大学で教え、結婚し、1959年 妻と1歳のエリザベスを連れて、国際基督教大学社会学科に赴任されたのであった。

1959年9月 フレシュマン(1年生)9月の新学期の始業式で、ニューウェル先生が新赴任の助教授として紹介されたニューウェル先生を見た。他にも何人か晨赴任の先生はいらしたのだが、ニューウェル先生の印象は強かった。「熊のプーさん」みたい・・・何か 茫洋としている感じが良かった。

3.父の思い

 当時、私は迷っていた。私がicuに入ったことを喜んで父は、7月初に狭心症で急死していた。三鷹から駆けつけたても、臨終に間にあわなかった私は、夏休み中も気が抜けたようであった。間に書いたように、拡大家族で暮らしいたから、父が死んでも学業を続けるには支障はなかった。ただ、張り合いがなくなったのである。父は戦争が始まるまで、日本郵船の欧州航路の機関士で、御用船に乗って兵器兵隊を運送中、2度爆沈されて、生き残り、最後は会社の温情で船から降り、横浜にあった船員(人間魚雷」の乗り組み員)養成所の教員になって。終戦を迎えた。蔵書から推察するに、彼はだいぶ右翼愛国主義に傾倒していたようであった。1946年5月の宮城広場総決起では、自決して死ぬものと自分も家族もきめていたらしい。それが中止になった。

船会社は 一つにまとまって 船舶運営会を作り、父はその中で働きながら、船員たちの労働運動に共鳴するようになる。そんな父を船に乗せたのは、旧郵船の重役であった渡辺知直氏であった。この方はたしか東京にお住まいであったのに、1週に一度はというより、頻繁にわが家を訪れからた。過激な活動をしていた父が心配でならなかったらしい。白髪で、身体が大きく、犬の好きな私はコリー犬のような方で、素敵だなと思っていた。福島県会津の方で 白虎隊の生き残りの末裔とうかがった。

最初はグアム島行き米船に乗っていた父であったが、やがて 朝鮮事変が始まる。遊船は、半島に兵士を運ぶ上陸艇LSを運営する別会社をつくった。米船運航株式会社である、父は最初はLSGに機関長の乗り組み 最後には総務課長をしていた。 戦争で多くの教え子を死戦に送り、敗戦時には自決しようとした父は、郵船時代は労働運動の闘士で、しばしば、給料停止になったと母殻聞いた、米船運行時代には よく朝鮮の人たちが家に来て 父に相談していた。夕方になると、母はその人たちもお膳をつくった。 1059年 父が急死した夏、そのうちの一人が独りでたずねてきた。「お父さんは?‘’「死にました」 驚く男を床の間に父の写真のある八畳間に通した。基督教の家だから、線香をあげてくれということもない。しばらく うつむいていた男はやがて残念です。と一言いいおいて帰っていった。あの人、何のようできたのだろう、喧嘩早い奴だと父が言っていたような思い出があるが、ご飯は食べていたのであろうか。 母も伯母も誰もいず、私一人での留守番であった。お金の持ち合わせもなかった。あれから60余年となるが、今でも時々思い出す。父に死なれて残念といった人に何かしてあげられれば、よかったのに。名前も連絡先も聞かなかった。お父さん、ごめんなさいね。気の利かない娘です。

父がicuという大学を受験前に見に行って、感心したのは トイレにヒーターがあり、清潔であったこと、そして教授陣に知った名を見出したからであった。遊船の船員仲間にA 氏がいて その方の伯父に当たる方がILOの日本代表を長く勤めた後、この大学の教授になっていた、1956年以降、三池炭鉱の労働組合委員長は 毎年 青山学院高等部の祭りに招かれて 講演をしていたし、向坂教授の話も聞いたことがあった。というわけで、労働問題専攻しても良いとは思っていたが、肝心のA教授は好きになれなかった。後に会議通訳の世界で生きるようになり うじゃうじゃとお眼にかかった「インターナショナルな人々」タイプである。こんな先生とは勉強できない。 でも、死んだお父さんの気持ちもある。でも、父が私に何をやってもらいもらいたかったのか、労働問題の何をやってもらいたかったのかは 聞かずしまいであった。

というわけで、私は1959年9月 悩んでいる私の前に 颯爽とはいえないが。未知の世界からの爽やかな風に乗って 現れたのが ウィリアム・H ニューウェル教授だったのです。

今回もインドにつきませんでしたね。 次回は 出発して 到着します。

                                           レヌカー・M
 
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