11月のご挨拶

10月は忙しい月でした・・・・と思ったのですが、よく振り返って見れば 施行した旅は2本だけです。
「ナコンパノムの火の舟」と10月23日の「SLで行く アユタヤー」・・・それが大変というより、濃く感じられたのは、ナコンパノムの旅が ほぼ6年ぶりで、町もホテルも祭り自体も変わったので、下見しながら、驚いていたからかも知れません。

1.ナコン・パノムの旅;センチメンタル・ジャーニィ

 下見と言えば、かつては必ず地女シーを連れての旅でした。その彼女が逝って、今はどこでも一人で行きます。

 コンケンからソムデット経由でプーパーン山脈を越え、ナコンナコン・パノムに行く道も思い出の道でした。プーパーン離宮に寄って、荒廃と言ってはいけないけれど、人気のなさにがっくりしました。ゲリラ撃退に文句を言ってはいません。1966年5月初、インド留学からの帰路、長男プラチャーを抱いた私の乗ったBOAC機は東北高原から赤濁色のメコンが折れ曲がって流れるインドシナの上を翔びました。ゲリラ隊に身を投じた若き英才チット・プーミサクがプーパーン山麓の村で撃ち殺された頃です。1971年、タイに住み始めた私にとって、プーパーン山脈での対ゲリラ戦の話を聞いても、ナコン・パノムは遠く、実際に旅したのは1992年の正月でした。

 初のナコン・パノムの旅では、ベトナム戦争保養地の雰囲気の残るホテルのジューク・ボックスで60年代の歌「Goodbye Jimmy,Goodbye」に涙しました。

 新年パーティハレヌー・ナコンのプー・タイ族の村でシリキット王妃訪米団に随行したプー・タイ族の美女と青年たちに囲まれ、踊りました。彼らの意気は高く、酒のペースは速く、「レヌカーの旅」一同、苦労しました。総勢57人の「レヌカーの友」の筆頭は松本嘉司先生ご夫妻でした。先生の笑顔を思い出しています。

 今はプーパーン離宮に人影はなく、華やかだった昔の面影はありません。ベトナム戦争の翳も、チャヴァリット首相と連れ立つ「話題の人・クンイン・ルイ」の姿も見えません。

 メコンの流量は少なく、それでも私たちの眼前を3隻の「火の舟」が流れて行きましたが、大半は河の中に固定されて 夜闇を炎で照らしていました。それもあり・・・と思います。「ナケーの英雄」若き警察署長セーリー・テミヤヴェートも老骨の国会議員として憎い発言をしています。

 かつての常宿メコン・グランド・ビュウのマネージャーにも会えた。再会できていないのはVIP・インのスチャート氏。メコンを渡ってラオスに行く旅で、船のエンジンの音に耐えられないからとスチャートさんにあづけた妹も、逝って10年あまりになります。

 また、来よう。あと何回か 分からないけれど、そして、プー・パーンに登る手前のソムデットの町で孝行息子ビック君の焼き飯を食べよう・・・と思っています。





2.23日のチュラロンコーン大王記念日に行った「SLで行くアユタヤーの旅」は、 10月末なのに36度という暑さの中で、皆でがんばった旅でした。一人、二人の旅だったら、途中で帰ってしまったかもね・・・子供たちもがんばりました!

 SLとの写真、車中での歌合戦、トライローカナート王と息子たちの仏塔(若い時に産ませた孝行息子の仏塔と王としての地盤を築いてから若い 家柄の良い王女に産ませた「王子さま」の仏塔に囲まれた大王の仏塔に感慨を覚えた男性たちもいらようです。石井少年以下男の子たちは、あまり感じていなかったみたい・・・ですが。

 ランチの後はホテルの波止場からパーサク河に船で乗り出し、日本人街まで行って チャオプラヤー河にバックしました。河から眺めるセント・ジョセフ寺院、山田長政の敵だったプラサートトーン王建立のチャイワタナラーム寺の壮麗な姿に歓声をあげました。  アユタヤーの最後の見所はポルトガル村。教会遺構と墓場。遺品としては何も残っていない日本人街と比べて、感慨を持った方もあったようでした。

 23日のアユタヤーの旅は、レヌカーに素晴らしい贈り物をくれました。北海道のジンギスカン鍋です! え? どうして? と言う方は バンコク国立博物館ボランティアーOGの後藤夫人に聞いて見てください!






                                    レヌカー・M