「レヌカーの旅」紀行文
チャオプラヤー川から ケスタを越えて メコンへ(3)

 生家の話をしようとして、妙蓮寺の町の地形をなぞりすぎた。本になる時には、全部削除の憂き目に会うかも知れないが、ウェブでは まずは載せさせていただこう。妙蓮寺の街をなつかしむ顧客の方々も多くいることを知るレヌカーである。

 ここで、問題は・・・だ。生い立ちとして、横浜も港北区の妙蓮寺のことだけ話していたのでは、私の「さが」の「来し方」の説明にもならない。私たちは・・・と、私は自分を育ててくれた父母、伯父伯母、従姉妹たちの顔を思い浮かべる。

 私は祖母(父の母)を中心として、父の兄や姉たちとその家族が同じ敷地内の家々に、または同じ隣組内に住む拡大家族の中で育った。祖母とその夫(父の父)は明治時代に夫々富山、山梨から東京に出てきて、働き学ぶうちに基督教の集会で知り合い、結ばれた仲であった。これからは幼い私が戦時中の防空壕の中で従姉妹たちから聞いた話、敗戦後 米軍を逃れての疎開先でドラム缶の五右衛門風呂に入り、納屋だったか、牛小屋だったかの脇で布団を敷いて寝た1,2週間の間に、愛子伯母から聞かされた話を思い出しながらつづることになる。

桐畑は我が家のルーツ

 父方の祖父は甲府の出であった。維新間もない頃、祖父は甲府の秋山郷から上京して警察官となり、東京で勤務していた。祖母高橋まきは富山の浄土真宗の寺の娘であったが、継母をきらい、先に家を出ていた兄を頼りに上京した。伯母の話では「頌栄女学校に通っていた頃」、嫁である私の母の話では「女学校で住み込みで働いて、授業も受けさせてもらっていた頃」、若い二人は教会で知り合う。どこに住んで、どこの教会で知り合ったかは、聞かなかったのか、聞いても、まだ東京は母の実家のある阿佐ヶ谷しか知らなかった私の記憶には刻まれなかったのかもしれない。やがて、なぜか神戸で働くようになった祖父と祖母は結婚した。結婚記念写真を観た覚えがある。祖母の着た着物の裾が長く、開いているのが不思議に思えたことも覚えている。神戸に住んだ二人は平野教会に通った。神戸には、その後、台湾行きを挟んで、何年も棲んだらしい。

 志願したのか、転勤か知らないが、祖父は台湾総督府の警察官になる。まずは一人で渡ったらしいが、間もなく、汚職の疑いで神戸に帰される。ほどなく疑いは晴れて、愛子伯母の話では、「凱旋将軍のごとく」台湾に戻るが、何年か後に退職して、山梨から弟を呼び、現地で起業する。秋山商会は何の商売をしていたのか聞かなかったが、家に残っていたセピア色の写真を観ると、軽便鉄道を敷いたこともあったらしい。弁髪の工夫と撮った写真が何枚も家にあったのを覚えている。

 いつから、横浜に住んだのか知らないが、私たちにとって、祖父母の確かなルーツは桐畑である。今もある住宅街の中心は日本基督教団神奈川教会とその幼稚園、そして青木小学校である。秋山の家は神奈川教会の元老として教会の名簿に載っていた。

信徒たちの結束

 祖父母は教会堂を立てるために皆でがんばったと言っていたそうだが、神奈川教会の会堂建立には桐畑でバンドの如く親しく暮していた基督教信徒たちが力をあわせた話は、他の元老2代目からもしばしば聞いた話であった。

 父が9歳の時と言うからには、大正10年頃であろうか、祖父は台湾から戻り、東大病院で胃がん手術を受けて、生還しなかった。祖父の葬式も神奈川教会でした。桐畑の家から長い馬車の行列の写真も残っていた。基督教徒の遺体は当時は焼かず、雑司が谷の墓地に葬った。

 祖父が死んだ時、家には 7人の子供がいた。長女の敏子伯母は結婚しようとしていた。長男は同志社大学生、あと愛子伯母と4人の弟たちであった。末の弟は隣家に乞われて養子になり、私の 父も一度は養子に出されたが、逃げて帰ってきたという。未亡人と子供たちの厳しい生活が始まったが、祖母がボランティア=の教会活動を続けられたのは、愛子伯母の支援あってのことだった。

「お母さんには、すきなことをやらせたい!」 いいなぁ、こんな娘をもって・・・・・

 家族は桐畑の家を売って、高島台の山上に住んだ。 1923年(大正12年)9月の関東大震災で横浜は大被害を受けた。高島台の上から見た横浜市内は火の海で、「思い出すだけでも怖くって、皆、遠くへ逃げたかったのよね」 私たち家族が妙蓮寺の町に移り住んだのは、京浜地区の住民たちを動かした「郊外への移住」風に乗ってのことである。高島台の山を抜いて、東横線が敷かれ、神奈川教会の信者たちは桐畑のすぐ下に出来た反町駅から東横線沿線の郊外に散って行った。そして日曜になると、東横線に乗って、反町駅のすぐ上の桐畑の神奈川教会に集まり、礼拝を受けたのであった。

 1940年、大東亜戦争が始まり、男たちが戦場に出て行った後、女と年寄りしか残っていない教会で、信徒たちは助けあった。礼拝の前に皇居参拝をきめた基督教団に反抗して、元老たちがまず結束して教会を脱退し、独自に礼拝していた時期、妙蓮寺の家が日曜の礼拝の場となったことも長かったが、その時も集まり毎に信徒仲間の結束は固かった。

 愛子伯母がよく相談に行ったのは、白楽の伊藤信一おじさんのところだった。私は伯母のお気に入りであったので、よく連れていかれた。白楽の駅前から東横線に沿って少し妙蓮寺よりに戻ったところの坂道にある一山に伊藤一族は住んでいた。松本千恵子さんだったか、その一族のお一人はかなり名の知れた翻訳家であった。愛子伯母と仲の良かった千恵子さんは、私が中高生になっても可愛がってくれて、いろいろなところへ連れて行ってくれた。高校2年生の時にご一緒した古河庭園でのことは今でも忘れられない。彼女と待ち合わせていた男性はたしか新潟出で、敗戦後フィリピンで日本兵が多く殺された収容キャンプの生存兵であった。千恵子さんがしていた活動の一環を観た思いがあった。そして、古川庭園にまつわる財閥系で、同じく生存兵の弟が私が通っていた高校で同級同室のf君と知ったのも奇遇であった。翌週 彼にその話をすると、兄さんを尊敬しているらしい、まぶしそうな眼差しをしたのを思い出す。

 伊藤さん一族が住んだ山の隣は知事官邸で その脇に後に岸恵子の家が建つ。初代伊藤元老(信一さんの父上)は、石油会社ライジング・サンさんの重役で、当時は高給取りであったそうだ。松本千恵子さんは英国に留学していたから当然であるが、日本の女学校にしかいかなかったが、英語でよく賛美歌を歌っていた。英語を話す伯母なんて、戦争中は考えもしなかったことであるが、敗戦後、菊名池が進駐軍兵士の観光地になり、多勢の軍服白人男たちがわが家の前、三角形の「下の道」にたむろするようになった時、それまで隠されていた伯母の実力は発揮された。 私の伯母たちも 伯父たちも皆青木小学校で学んだ後は、男は二中、女は捜真女学校へ通ったのだった。伯母の英語の実力は捜真女学校でミス・カンヴァルスという宣教師から直接鍛えられたものであったが、伯母の力で着物、帯と交換に得たレーション・フードや砂糖を祖母をはじめ、子供たちも喜んだ。兵士についてきた厚化粧の日本女性は、堂々と話して、交渉する伯母に驚き、英語の先生だったんですか? と聞かれたこともあった。「先生はしてましたけれど、お作法の先生ね。あなたたちも日本を代表して、お行儀よくがんばってね」というようなあったように思う。伯母は一口多い人であったのだ。


桐畑と結びついた妙蓮寺での日々

 妙蓮寺に住んでも、毎日曜日は教会に通いに反町の駅へ行ったし、神奈川教会付属幼稚園には私も通った。そして横浜市立青木小学校。伯父も伯母も父もここで学び、従姉妹たちは戦火が厳しくなるまで、そして学童疎開が始まるまで、妙蓮寺の駅から東横線に乗って反町で降りて、桐畑の青木小学校に通っていた。同じく桐畑の神奈川教会付属幼稚園に通う私も、末は青木小学校に入学すると思っていた。横浜が米軍の大空襲を受けた1945年5月29日、桐畑の神奈川教会も付属幼稚園も青木小学校も全焼してしまう。私の幼稚園の先生も、その夜亡くなった一人である。教会近くの医院のお嬢さんで、まだ若く、綺麗な方であった。その夜は崖下の川に逃げて、亡くなったと聞く。

猿のロク

 青木小学校の話しをして、サルの話をしないわけにはいかない。大正から昭和にかけて、青木小学校では、ロクと言う名の猿が1匹 飼われていた。私の伯父たち、伯母たちもそのロクが好きで、あまりによくその話を聞いたので、夢に出てくるほどだった。後で、真一伯父がシベリア抑留から戻って診療所を開いた頃、1匹の猿を売りに来た水夫がいた。台湾猿であった。伯父は猿にロクとなずけて可愛がったが、元祖ロクと違うのは、台湾猿の長い尻尾は日本の冬にはあわないのだ。しもやけになってしまう。ロクは私が大学に入るまで生きていたが、尻尾に包帯でつくった鞘をはめていた。

 青木小学校、桐畑 横浜大空襲の話を書くにあたって 在日本の椎熊邦弘氏に調査していただいたり 文献を調べていただいたりした。青木小学校卒の椎熊氏はバンコクでは幾度となくレヌカーーの旅に御参加いただいた。現在は松が丘のご自宅にいらっしゃる。ありがとう ございました。

                                           レヌカー・M