「レヌカーの旅」紀行文
チャオプラヤー川から ケスタを越えて メコンへ(2)

旅の始まり:「さが」を育てた生い立ち

 レヌカーの旅の起点は、インド。1964年8月31日に始まったと記したが、その前に説明がいるであろう。日本の横浜に生まれ 育った私が 20代半ばの身で、なぜインドにいたのか。  今つらつら考えるに、それは私という人間の性分というか、さがゆえであったとしか言えない。それを説明するのは難しいが、せめて私の生い立ちについて、少し語って、自分なりの言い訳というか、読者の方に私の「さが」を感じていただく伝手としたい。

妙蓮寺の生家と菊名池

 私の生家は、横浜も北の篠原町にあった。町名は榎本である。東横線「妙蓮寺」駅で降りて、線路を寺のほうに渡らずに、駅前商店街を50メートルも歩けば、綱島街道に出る。街道を右へということは、北へであるが、さらに150メートルほど進むと、左手に茂みに囲まれただらだら坂がみえる。菊名池畔に通じる道である。

 私の家は、その坂を下りてから、池畔を4分の1弧ほどたどったところにあった。公園の入り口の向かいである。菊名池は今は半分が埋めたてられて市営プールになってしまったが、もともとは湧き水を水源とする天然の池であった。妙蓮寺は八方を山々に囲まれた窪地で、中心に菊名池があった。東の山の裾野に日蓮宗の妙蓮寺があり、大地主であった。その上下、また周囲の山々も段々に切り開かれ、住宅地になっていた。

「上の道」「下の道」

 北の武相台から菊名池前まで伸びた山裾の端に、私の家はあった。敷地はほぼ三角形になっていて、その1辺は公園の北から、池を見ずに綱島街道へ出て六角橋に抜ける「上の道」でもう1辺は池畔を回る「下の道」に沿っていた。二つの道のちょうど分岐点に公園の門があり、その向かいが私の家であった。「下の道」に沿って土手が造られ、竜頭が植えられていた。土手には菊名池から亀が這い上がってきて棲んでいたりした。

 三角形のもう一辺は、桜井家の裏に面していた。1970年代、東横沿線の進学塾界で勇名を馳せ、大人気を得ながら、彗星のように消えた妙蓮寺進学塾は、この塀の中にあった。その短いが華々しかった全盛時代を塀の反対側からながら共有できたことは、夫の日本駐在についていった私の幸運であった。進学塾が消えたのは、講師たちが大学の教官の職を得て、散っていったからである。もうアルバイトをしないでも、食べていけるようになったのだ。桜井家の次男坊由み雄も京都大東南アジア研究所の助手になって、京都に発った。およそ10年後、彼は東京大学東洋史の助教授となって、塀の向こうに戻ってきた。1985年に彼が石井米雄先生と共著で出版した「東南アジア世界の形成」は一世を風靡し、バンコクでも国立博物館ガイド勉強会の教科書となり、熱読された。

 我が家に戻って話を続ける。敷地の三角形の頂点に立つと、池の向うに東の山々が見えた。晴れた日には東北に大倉山の国会図書館分館が見えたこともあったと思ったが、それは幻であったかもしれない。妙蓮寺の街に住民が増えると、家が隙間なく立ちはじめ、視界は閉ざされた。公園の脇にはかねてから、小さな公営市場があったが、それが鉄筋コンクリート製となり、5,6階建ての公営アパートを上に持つようになった。こうなると、眺望などと言っていられない。我が家の塀も高くなった。

「水道道」

 公園の向こうに走る大きな広い道は、水道道と呼ばれていた。北へ向って坂をのぼれば、武相台である。坂の途中に山羊を飼っている農家があって、よく山羊乳を買いにいかされた。山羊は一匹が糞をし始めると、それにならって、小屋につながれた全員が一斉に糞をする。あられ交じりの雨のような音をたてて、糞をする山羊たちを見ていると、乳を一口飲みたくなる。祖母のために買いにいったのに、子供たちでほとんど飲んでしまって、叱られたものだった。山羊園を越えて、左手の山を登れば、武相学園。その裏から三ツ沢の丘に通じる道があった。あれは祖母がなくなって、三ツ沢に墓地を移してからのことだったと思う。従姉妹たちと弁当をもって、墓地まで歩いたことがある。水筒はもって行ったのだったろうか。道端に生えたすかんぽをとってかじりながら、歩いた。

 武相の丘にのぼらないで、水道道を下れば、篠原池に出る。後にその上に米軍の岸根基地が設立され、新幹線の新横浜駅もできるが、当時は子供の足ではそこまで行けなかった。

 公園入り口から交番の前を通ると、水道道は橋になって、菊名池をわたる。戦争中、鉄橋の欄干は「供出」され 戦後もしばらくは池は欄干なしであった。下の道を歩いて通学する途中で、水死体をみつけたことがある。当時はまだ妙蓮寺界隈には市立小学校はなく、榎本地区の子供たちは隣町の白幡小学校に通わされた。綱島街道を降りて、六角橋に近いところで、東横線の白楽駅近くであったが、私たちは歩いて通った。

 子供の脚で1時間近く歩かなければならないので、朝は7時前に家を出た。当時は私たちは三角形の外にあった父の姉の家に住んでいた。派遣先の満州からまだ戻らない姉一家の家に末の弟一家が住んでいたのだった。通りを隔てて、向かいは三角形の底辺を占める桜井家であった。由み雄ちゃんはまだ小さかったので、水死人を見つけた通学班にはいなかった。坂道をおりて、「下の道」に出ると、すぐ菊名池畔だ。その葦の茂みの中に水死体を最初に見つけたのは従姉の聖子ねぇちゃんであったと思う。すぐ近くの交番に届け、水死体をひきあげるまで、皆でじっとみていた。小さな老婆で、両手の小さな細い指がきちんとあわさっていた。後で聞いた話では、老婆は綱島街道わきの映画館に行った帰りだったという。欄干がないから、落ちたのであろうと言われたが、あわせた白い両手と静かな死に顔は 鮮やかに記憶に残っている。

内路(うつろ)と子安

 水道道は綱島街道と交わり、東横線のガード下をくぐりぬけて 坂道を登り、海のほうへ向かう。横浜駅東口から生麦経由で鶴見へ行く市バスが通っていたが、鶴見まで行ったと言う話しは聴いたことがない。やがて横浜市立港北小学校が建設されることになる丘を越えると、水道道は下りとなり、内路(うつろ)というバス停で止まる。このあたりから、なぜか東横線の雰囲気は消えて、横浜線の文化圏に入ったことがわかる。

 妙蓮寺に住む人々は、遠出しても、西は武相の丘、東は内路(うつろ)を越えて、その向こうに行ったことはなかったろう。私は生麦行きの市バスに乗ったことはなかったが、内路(うつろ)の先に行ったことがあるのは、敗戦後、北支からソ連に抑留されて、やっと帰国した伯父が診療所開業に医師会から割り当てられた地が子安だったからである。

 大口商店街を抜け、第二京浜道路、さらに第一京浜道路を渡れば、子安の浜である。漁船がひしめく浜辺に置かれた大釜の湯が煮えたぎり、赤銅色の肌をした漁師たちが大籠から捕りたてのしゃこを投げ入れていた。埋め立てが始まらない、まだ子安の浜がしゃこ漁でにぎわっていた1950年代の話である。

我が家のルーツは桐畑

 生家の話をしようとして、妙蓮寺の町の地形をなぞりすぎた。本になる時には、全部削除の憂き目に会うかも知れないが、ウェブでは まずは載せさせていただこう。妙蓮寺の街をなつかしむ顧客の方々も多くいることを知るレヌカーである。

 ここで、問題は・・・だ。生い立ちとして、妙蓮寺のことだけ話していたのでは、私のさがに触れることはできない。私たちは・・・と、私は自分を育ててくれた父母、伯父伯母、従姉妹たちの顔を思い浮かべる。私たちは横浜市港北区の妙蓮寺の町に住んでいたが、そのルーツは神奈川区の桐畑にあるのだ。祖父母がその設立にたずさわったと言う日本基督教団神奈川教会、その付属幼稚園には私も通った。そして横浜市立青木小学校。伯父も伯母も父もここで学び、従姉妹たちは戦火が厳しくなるまで、そして学童疎開が始まるまで、妙蓮寺も駅から東横線に乗って反町で降りて桐畑の青木小学校に通っていた。神奈川教会付属幼稚園に通う私も、末は青木小学校に入学すると思っていた。桐畑が大空襲にあって、教会も幼稚園も青木小学校も全焼してしまうのは、、まだ冬服に衣換えしていなかった頃だったと思うが、とにかく、次号では桐畑の話しを書きます。

                                           レヌカー・M