「レヌカーの旅」紀行文
チャオプラヤー川から ケスタを越えて メコンへ(5)

フレシュマンの憧れと夢

 1959年9月、新任のニューウェル教授の風貌に心惹かれて、先生の教える社会人類学を専攻に選んだと記したが、それには下地があった。ICU教養学部に入る前に、中根千枝先生の「未開の顔。文明の顔」は読んでいたのである。当時、評判の本であった。その学問領域についてはまだ十分理解できなかったが、ご自分の知的好奇心に導かれて、道を切り開いて進まれるお姿に感動した。いつか、この方に会ってみたいと思っていた。

その「あこがれ」にまつわる一つのエピソードを語ってみたい。

 7月初に父を亡くして以来、 私は三鷹のキャンパス内の女子寮を出て、妙蓮寺の自宅から通学していた。東横線で渋谷に出て、井の頭線に乗り換え、吉祥寺で階段を登り降りして、中央線に飛び乗る。三鷹はすぐ次ぎの駅であった。渋谷から山の手線で新宿へ出て雑踏の中を走って中央線に乗るより 効率がよいルートであった。

 ICUでは2月に受験し、4月に入学する学生は,G(一般)コースの学生と呼ばれる。9月に入学する学生は、Sで特別コースとされた。Gコースの新入生は、最初の1年をフレシュマン・イングリシュという英語集中訓練コースが必修である。その授業は朝8時半から一斉に始まる。寮生にとっては何でもないことであるが、朝8時半の授業に間に合うことは通学生には大層なことであった。 妙蓮寺の駅を6時40分頃に出る渋谷行きに乗って、乗り換えを2回して三鷹駅南口に走り出て、大沢行きのバスに乗る。8時前のバスに乗れれば、御の字であるが、8時10分のバスは校庭入り口にしかとまらないので、桜並木のアプローチを本館まで走っても、授業に遅刻は決定的である。しかたなく、タクシーを使うのであるが、その相乗り仲間が何人かできた。1年生は私一人のことが多くて、あとは 大人の講師のかたがた。今、考えて見れば、「あの子また遅れているわ。割り勘で乗ってあげましょう」という優しい方たちであったのではないか。

 何曜日だったか忘れたが、1週間に一度乗り合わせる中年の素敵な女性がいらした。雛人形のように整ったお顔に端正なスーツを着こなしていらした。何回か二人だけで乗合わす間に、私は1年生で英語の授業に間に合うために走っているが、社会人類学を専攻に選んだとお話してしまった。素敵な方は、明治時代の基督教について講義にいらしていると話してくださった。姓は山本で、息子がテニス部に・・・という話に思わず「知ってまーす。私もテニス部で・・・」と声をあげてしまった私であった。構内まではおよそ20分、話は当然のことながら、「憧れの中根千枝先生」に及んだ。「中根さんなら、良く存じ上げていますよ。紹介してさしあげましょう」の言葉には、胸が高鳴ったが、その話は実現しなかった。間もなく、私は事故で足を痛め、しばらく通学できなくなったのである。  放課後のテニス部の活動で、テニスコート整備があり、私はなぜか大きなコンクリート・ローラーを引っ張ることになった。セクションも一緒、クラブ活動も一緒の3人組(4月御殿場でのオリエンテーションで「スリー・ビュウティーズ」と名乗りをあげた)の大宅映子さん、沼田紘さんと一緒であった。ICUの校庭は 旧中島飛行機の工場敷地で、隣には富士重工の工場があった。1950年代後半−60年代のICUでは、校庭整備は日常作業であった。その日、大宅さん、沼田さんはローラーを引っ張る鉄棒枠の両端に、私は真ん中にいた。いつものように、おしゃべりしながら重いコンクリート・ローラーを引っ張る。なぜか私は下を向いていたのだった。突然の叫び声で顔を上げてみれば、テニスコートの金網フェンスはもう目前である。ローラーは止らない。フェンスによじ登れず、「どじ」の私の左足は、転がってきたローラーの下敷きになってしまった。

一か月余を家で過ごし、学校に戻った頃は学期末であった。2年生になれば、早朝の英語の授業はない。タクシーの相乗りもなくなり、素敵なスーツ姿の山本夫人に再び会うことはなかった。テニス部の山本君の母上が、東南アジア史学会の礎を築かれる山本達郎教授夫人であると知ったのは、ずっと後の話である。留学先のインドで東洋史専攻の人々と親しくなってからであった。

ニューウェル先生宅での勉強会

 中根千枝先生にお目にかかりたいという私の夢は、その後、かなり早く実現した。大学キャンパス内のニューウェル先生のお宅で定期的に開かれていた勉強会で、中根先生が講義なさり、私はその謦咳に接することができたのであった。

 勉強会では、講師が英語以外の言語で話される時には通訳もついた。思い出せば、今でもどきどきする、不思議な雰囲気の勉強会があった。それは2年になって、マルセル・モースの贈与論を英語訳で読んだ頃だった。ニューウェル先生はモースに師事したというパリ・マッチ誌特派員を招いて、勉強会を開いた。仏英の通訳は、丸山圭三郎先生がなさるという豪華な夜であった。

 その夜は特派員の学生時代の友人として、「きだみのる」氏が飛び入り参加なされた。「きだみのる」と言えば、当時の日本のインテリたちなら、「きちがい部落」の作者とすぐ分かったかもしれなかったが、ニューウェル先生が知るはずはない。先生にくっついて、「狭く、小さな地域社会」に住んでいた学生たちもモースならいざ知らず、「きだみのる」を知らなかった。「きだみのる」氏が自意識過剰な話を日本語でなさっても、無関心であった。「きだみのる」氏が気分がよい筈はない。氏に気をつかって、話に身が入らないパリマッチ特派員氏を尻目にかけて、「きだみのる」氏は日本語で吠えた。特派員氏は日本滞在10年とかで、「きだみのる」氏が何を言っているのか、分かったのであろう。学生時代からの友人なら、氏の性癖もご存知であったろう。ちんぷんかんぷんなのは、ニューウェル先生であった。その日は分厚い仏英辞典を座右に置かれていたが、先生がフランス語ができないことは、誰も承知であった。

 この場を救った立役者は、丸山圭三郎先生であった。日英仏に堪能で、夫々の言語で丁寧な敬語を上品に使われて、話された。早口も早口、特派員氏のフランス語を英語に通訳なさり、合い間合い間に「きだみのる」氏の日本語を英訳なさった。

 丸山先生の誠が通じたか、こんな「ものを知らない田舎者たち」を相手にしてもしかたがないとあきらめられたか、「きだみのる」氏は やがて静かになった。機転の利くニューウェル夫人がすかさず、「お茶にお菓子ですよ。皆さん、手伝ってぇ」と声をかける。学生たちは立ち上がって、お茶やコーヒー、お菓子を運び、和やかな座が広がった。ニューウエル夫人ポーリーンは労働党で秘書をつとめ、奨学金を得て、マンチェスター大学で政治学修士コースで学ぶうちに、講師であったニューウェル先生と出会った。青い目に金髪で、少し反った前歯が愛らしい方であった。危機に遭遇すると、ぶすっと黙ってしまうニューウェル先生を補って、あまりあった。遠い思い出の中で、ポーリーンは英国風ウィンクというのか、片頬をしかめて、笑っている。

 あれからおよそ10年。全世界に広がった学園闘争の波に、ICU キャンパスも巻き込まれた。鵜飼学長が去られ、やがてニューウェル先生一家もオーストラリアのシドニー大学に移られた。私たち一家がバンコクに落ち着く前のことで、日本を去る前の先生たちとゆっくり話もできなかった。幸いなことに、80年代後半、シドニー大学引退後、先生はインドへ、中国僻地へ、かつての調査の続きを始められた。その帰り道にバンコクに寄られ、わが家に泊られることが多くなった。何年のことだったか、食事をしながら、交わした会話の中に丸山先生が登場したのである。

 「話が通じなくなった学生たちを最後まで捨てなかったProf.丸山であったが、最後に筋を通して、ICUを去られた。Pro.丸山が辞めると聞いて、私ももうあの大学にはいたくなくなった」 かつてのニューウェル先生宅での丸山先生の健闘ぶりが脳裏に蘇った。

 中根千枝先生の勉強会に話を戻すと、日本語で話される時と変わらない調子で、自然な英語を話されての講義であったと記憶している。内容については覚えていない。多分、当時の私には、あまり理解できなかったのではなかったろうか。

 中根千枝先生は東大東洋史学科の教授であり、ご著書「未開の顔 文明の顔」において、先生がインド東北部辺境の山岳民族の調査について書かれていても、それは歴史を知り、民族を知り、古文書をお読みになれる中根千枝先生ならではのことであって、社会人類学プラスプラスの話であった。

社会人類学の世界

 それでは、社会人類学の学問領域・・・1960年当時の認識であるが・・・として、私が何を学び、理解するようになっていたかを簡単に話そう。

(1)ヌエル族の分裂と統合のリズム

 2年生になって受講した一般教育科目の一つに社会人類学入門講座があった。最初に読まされたのは東アフリカのヌエル(NUER族)についてであった。遊牧するヌエル族の中で何年も天幕生活をしたエヴァンス・プリチャード(E,E.Evans Prichardの「ヌエル族」(The Nuer)についての著作を読まされた。・・・もしかしたら、弟子にあたるRaymond Firth編かもしれない) BBC放送で講義した社会人類学入門コースをまとめたということで、赤いカヴァー表紙のあまり厚くない本であった。その本が五冊くらい、ICU図書館のリザーブ・ブックスの棚にあって、コース受講生は列を作って予約して、2時間で1章を読まねばならなかった。1年生のフレシュマン・イングリシュで速読法らしきものを習ったが、2年の1学期にはそれで点数を稼がなければならなかったのである。

 遊牧するヌエル族は中心になる権力組織を持たす、母系親族の分離と融合の重なりで統合されている。写真で見るとヌエル族は細面の背高のっぽ人であった。身体つきは優美であるがなにしろ、男も女も背高のっぽである。第一章でその背高のっぽたちの親族組織、親族呼称を学び、次にヌエル族内での葛藤の解決法,けんか調停の仕組みを習ったのである。非常に分かり易い、平明な文体で、英語の本を読む難しさは感じなかった。ニューウェル先生の話では、エヴァンス.プリチャードは、調査を終えて帰る際のアフリカの川舟の遭難で調査ノートもメモも全てなくしてしまった。それで あの簡潔なスタイルの本になったという説明であった。 しかし、易しい英語ですらっと書かれているが、それは凡人には「これまでに聞いたこともない」話なのである。喧嘩の仲裁に牛をやり取りする話は、旧約聖書にもあったから、まだ読めたが、驚いたのは、次ぎに読んだ「ヌエル族の親族と結婚」という、より薄い本の内容であった。

 ヌエル族は母系であると述べたが、その家族の娘なり息子が結婚する際、決定権利を持つのは父母ではなく、母の兄、弟なのである。その娘と結婚する男は、高価な贈り物を母の兄なり弟に、しなければならない。

(2)トロブリアンド諸島の船乗りたち

 ヌエル族の次に学んだのは、ニュー・ギニアのトロブリアンド諸島(the Trobriands)の住民たちを結ぶ伝統的贈与儀礼クラの組織であった。「西太平洋の冒険船乗りたち」(Argonauts of the Western Pacific、 London 1922)の著者ブロニスラウ・マリノウスキー(Bronislaw Malinowski)は、1908年,生国ポーランドで物理と数学で博士号を取得した後、英国のロンドン大学で民俗学を学んだ。ポーランドにいた間に、フレーザーの「金枝( Golden Bough)」を読破していた。エヴァンス・プリチャードはマリノウスキーのロンドン大学での最初の弟子とされる。オーストラリアを経て、ニューギニアで1914年ー15年、儀礼調査を行った。第一次世界大戦の最中であった。オーストリア国籍であったマリノウスキーは、当然オーストラリアでは敵国人であり、苦労したはずであるが、彼がニューギニアに滞在して 調査を続けられたのにはロンドン大学での恩師同僚の支援があった。

 当時のマリノウスキーがポーランド語で記した日記が英訳されていて、読んだが、驚くべきわがまま男である。「文字通りの日記」(A DIARY IN THE STRICT SENSE OF THE TERM)と題された日記は、彼の癇癪とともに、フィールドワークへの情熱と学問への誠実さが噴出している。

 贈与儀礼クラでは、貝殻の首飾りとか、太鼓などの楽器、芋類などの食物などが,島々を巡る船団により、継続的に交換される。儀式は次第に熱をおび、価値ある品物の贈与と返礼は競争となる。この書物を読んだのは、2年生の冬、スキーで怪我して、再び1学期を家で寝て過ごした間であった。ニューエル教授が貸してくださったマリノウスキーの本は分厚かった。本のタイトルは気に入った。アーゴノーツとは、ギリシャ神話に出てくる金羊を捜す船団乗り組み員たちのことで、近世ヨーロッパの神聖ローマ帝国には、金羊騎士の勲章もあった。それをメラネシアの土人たちにつけるとは、イメージが広がるな。どんな話であろう。読み始めたのはよかったが、何ページもすすまないうちに、その英語文体に困惑した。「マリノウスキーの英語」については、弟子ではなかったニューエル教授から散々皮肉めいた話を聞いていたが、百聞は一読に及ばずであって、語彙も難しいし、民俗的描写がいろいろとりりばめられている。さっぱり内容が分からないほど、複雑に思えた。辟易しながら、自分を鞭打つようにして、トロブリアンド諸島の金羊団の話を読み終わると、次ぎに送られてきたのは、A.R.ラドクリフ・ブラウンの「アンダマン諸島の人々」であった。

(3)アンダマン諸島の宗教儀礼

 ラドクリフ・ブラウンの著書は、既に「未開社会の構造と機能」(Structure and Function in Primitive Society)を丸善でみつけ、読んでいた。理論は明晰で、読みやすい。例証に引かれた話も十分に面白く楽しめた。しかし、「アンダマン諸島の人々」(the Andaman Islanders 1922)は,つまらなかった。民俗的描写が少なく、無味乾燥に思えた。マリノウスキーの描くトロブリアンド諸島の話には夢の広がりがあったが、それがないのだ。いらただしさも癇癪もない代わりに、愛が感じられない。トロブリアンド諸島には、とても長居はできないだろうが、まぁ1度は訪れたいと思った。しかし、ラドクリフーブラウンのアンダマン諸島には、1度だって行く気をそそられなかった。

 皮肉にも、1982年から86年まで、スリランカのコロンボ勤務になった夫に従って、私たち一家はコロンボに住んだ。日本から来た愛子伯母と大学受験生の長男をバンコクに残してのことであったので、少なくとも月に2回はインド洋の上を飛んだ。タイ航空の機長は必ず告げる。「皆様、私たちは今 アンダマン諸島の上を航行中でございます」  長く連なる点の固まりに見えるアンダマン諸島を上空からながめながら、トロブリアンド諸島もこんな風に見えるのかな、と思ったりした。

(4)ニューウェル先生の世界

  ニューウェル先生は、1922年、インドのベナーレスの英国国教会牧師館で生まれた。牧師であった父上はニュージーランドに引退され、先生も首都ウェリントンのヴィクトリア・カレジで学ばれる。太平洋戦争中は、気象観測機のパイロットであったということであるが、どんな飛行機だったのだろう。私の夫は1970年代、外務省儀典局でドンムワン空港でのVIP送迎任務をしていた。待ち時間が多い。それを利用して、空港内の航空クラブでチップマンク機に乗りはじめた。スーヌーピィの漫画に出てくるプロペラ機である。日本勤務になる1975年3月前には、ソロの免状をとっていた。ニューウェル先生が私の夫と親しくなるのは、1986年にスリランカから戻って以後、先生が調査の帰り、シドニーへ帰られる前にバンコクの我が家にお泊りになることが多くなってからである。今、この文を書きながら、その頃の先生に「プロペラ機の操縦」に話をもっていっタラ、どんなに面白い話がきけたろうかと悔やんでいる。

 さて、大戦後、先生は英国へ行き、オクスフォード大学はA.R.ラドクリフ・ブラウン教授のもとで社会人類学を学ばれた。先生は生涯 教授の直弟子としてご自分を持していらした。弟子の弟子は金魚の糞か。A・R・ラドクリフ=ブラウンが教えたように、人間社会を生物体に似た「一つの有機体」として観ることを先生は私たちに説いた。金魚の尾だか糞だか知らないが、極東の島の1寓で、私たちもデュルケイムの「社会分業論」読み、 先生が学ばれたように、社会人類学を学んだのである。

ICUへいらっしゃる前のニューウェル先生の足取りも、色彩豊かである。先生の最初のフィード・ワークは中国の確か、四川省であった。調査を始めたばかりで盲腸炎になり、入院中に革命軍が到達し、手術の跡をおさえながら、脱出された。次ぎの調査地はインドのヒマルチェルプラデシュ州で、調査結果を論文にまとめることができた。次ぎにまだマラヤだった頃のマレー大学で教えながら、土地の福建省移民の農村社会を調査し、著書を出し、マンチェスター大学の講師を経て、結婚し、日本列島へ旅立たれたのである。

 先生がいつも口にされていたのは、外国人の目のメリットであった。「日本人には日本社会をバイヤスなしに観察することはできない」という言葉であった。「日本社会に育った人間は、その文化に邪魔されて、外人が見えるものが見えないのだ。?「外から入ってきた異邦人」は文化の色眼鏡に害されずに、明瞭にその文化を観察をできる」という考えであった。社会人類字のもう一つの名である比較社会学の理念である。多分、英国社会人類学の生徒たちは、大戦後の動乱の世界で、この言葉で自らを慰めながら、調査していたのではないだろう?  私には納得できなかった。日本語を話せない、読めない外国人に 日本社会が何で理解できるのであろう。私たちは ヌエル族ではないぞ、無文字社会ではないぞ。アフリカのシマウマの群れと一緒にされてたまるか。

 反抗しながらも、私がニューウェル先生の下を去らず、忠実な弟子であり続けたのは、一つには先生の反社会的とも見える頑固なライフスタイルとそんな先生の教える社会人類学という学問の面白さであった。

60年安保

 1960年春は、日本列島は安保問題で揺れた。樺美智子さんが亡くなった日には、授業を休んで、セクションの仲間たちと国会前のデモに参加した。バス停に並んだ私たちを止めようとして、子鬼のように、飛んだり跳ねたりして、ワーフェル助教授(国際関係論)が叫んだ。「こんなことすると、アメリカから寄付が来なくなるぞ!」 沼田紘さんも大宅映子さんも、石塚雅彦君もガムちゃんこと庭田洋一君も一緒だった。日頃の親しい仲間であったが、「おじぃさまのことを考えて・・・参加できない」という平原敬子さんの事情は皆了承した。

 雨の日であった。ICUの名前は出さない。それぞれが個人の資格でいくという条件で行動したのに、国会前に出ると、「リベルテ」というグループが、隠し持っていた旗をかかげた。セクションBの六本氏であった。「あの旗をひっこめろ!」セクションAの皆で叫んで、ひっこめさせ、その後は雨の中を黙々と歩いた。「浅沼さんが刺された!」というニュースが入り、デモ隊も騒然となったが、私たちはただ歩き続けた。解散は渋谷の公園だったと思う。ゴム長靴で長時間歩いた私のふくろはぎは 赤い筋がついて、なかなか消えなかった。

 あの日、ニューウェル先生が何をしていたか、知らない。何しろ、あの家にはTVもなかったので、もしかしたら、事件を知らないで過ごされたのかもしれない。多数の生徒たちの授業放棄に気つかなかったはずはないが、翌日もその後も、先生から安保デモについて聞かれたことはなかった。

 経済学ではサミュエルソンが全開で、それをケインズ理論が追っていた。開発計画論も盛んであった。社会学では、マートンが翻訳され、マックス・ウェーバーの新解釈がされていた。日本の農村社会学では「家制度」の崩壊は一段落つき、共同体理論が盛んであった。農村は都市化で変革中であった。都市社会学では、社会の流動性と新しい成層化が人気のある研究テーマとなっていた。まだ老人問題は意識されていなかった。

 日本社会が右上がりに発展成長の道を歩んでいたが、マルクス経済の呪文は、まだ街頭演説に、学生のシュプレヒコールに生々しく生きていた。そんな中で、平然とパイプ煙草をくゆらすニューウェル先生のポイズには、ほっと安堵できるものがあった。

 1980年代にオルターナティヴalternative という言葉が流行するが、社会人類学の生徒たちは、1960年代にすでにオルターナティブな「ものの見方」を学んでいた。オルターナティヴは、体制への、権威への「静かな抵抗」である。権威主義は革命を目指す集団のそのまた細部の小集団にもあって、内ゲバとか リンチとか 空恐ろしいことがささやかれていた。社会人類学の世界にいれば、そんなものからは自由だった。社会人類学の学者たちは、体制から、権威から自由であるように観えた。ぐんぐんと社会人類学に魅せられ,惹かれていったのは、桐畑をルーツとする私の一族の「さが」にも一因あったかもしれなかった。

外の世界に目を見張って

 東京都とはいっても都下三鷹市の小さな小さな大学でしかない国際基督教大学は、米国の基督教界の有志の寄付を集めて始ったばかりであった。1963年卒業の私が7期生であるから、創立は1953年。防衛大も同年に始まった。広い世の中ではあまり知られていない大学の、しかも社会人類学専攻なんて言ったら、パプア・ニューギニアの教会から派遣された宣教師かと思われてもしかたないような中で、私を三鷹の小さな特殊世界から、まだ特殊ではあるが、日本の中では「より普遍的な知的コミュニティ」に連れ出してくださったのは、ニューエル先生の助手をなされていた原忠彦氏である。

 1959年秋、ニューウェル助教授とともに、キャンパスに現われた原忠彦先生の風貌は、ニューウェル先生にも劣らない、強烈な印象を学生に与えた。大きな方であった。少し猫背なのは、持病の喘息ゆえと後に知るが、ひげが濃く 両手もなぜか長かったと覚えている。風呂敷に包んだ本を大事そうに胸高にかかげながら、すたすたとかなりの速度で歩かれる。足幅が長いからだろうか、私はいつも小走りに先生の後について走っていたような気がする。

 原先生は、東大の文化人類学の出であられた。足の怪我が治ってからであったと思う。「外の世界をみなさいよ」と言われて、先生が最初に私を連れていかれたのは、地下鉄丸の内線「本郷三丁目」駅から歩いて、赤門をくぐった先の教養学部文化人類学の教室であった。その日のうちに、先生は私を・・・東洋史だったと思うが・・・とある研究室に連れて行かれ、助手の金山先生の前に座らした。金山先生は禿げていらしたのか、剃っていらしたのか、はっきりとした記憶はないが、、原先生と同年輩の男性で、眼鏡をかけた僧侶のような雰囲気の方であった。そこで、私は金山助手から、日本人類学会刊行の「人類学雑誌」に掲載された論文の索引つくりをアルバイトの仕事としていただいた。

東大教養学部文化人類学教室

 「人類学雑誌」のバック・ナンバーは、文化人類学研究室の事務室のガラス戸棚にしまわれていた。この「お仕事」のおかげで、それから私は毎週「正統な理由」で文化人類学の事務室に通うことになった。今つらつら考えるに、それは「広い世界」に私を連れ出した原先生の善意ある策であったのではないだろうか。事務室には、常時 事務員以外にも何人かの女性研究生が座っていた。、「アルバイト」で通っているというのに、その人たちから、いろいろと聞かれ、聞かされた。畑中幸子さんは東京女子大卒で、ご自分の研究で忙しそうにされていた。後にポリネシアで調査なさるが、その話は有吉佐和子女史が「週刊朝日)に連載された。津田塾から学士入学なされた黒田悦子さんには、年令が近いこともあって、親しくしていただき、インドへ留学するまで交友は続いた。

 「人類学雑誌」掲載論文の索引作りは、退屈ではなかった。バック・ナムバーの掲載論文は、形質人類学が多かった。名前はとうの昔に忘れたが、日本人とアイヌの耳垢を研究している方がいた。先述のように、私の伯父は耳鼻咽喉科の医師で、診療所を開いていた。子供の頃から,その医院に出入りし、夏休みにはアルバイトもしていたので、伯父から耳垢の話はよく聞いていた。「耳垢は百人百様であるが、遺伝する」「右耳はねばる耳垢であるが、左耳はさらさらの人もいる」アイヌと和人の耳垢の違いに関する論文を読んで、アイヌの中でも,和人の中でも、様々なのだから、もっと詳しく調べなければだめだ。もしかして、筆者はアイヌは粘り耳と言う偏見を持っているのではないか?と思ったりした。

 戦時中の論文には、鳥居龍蔵氏の中国や蒙古における調査報告が多かった。面白い論文を読んで お茶をいただいて、目が疲れれば、散歩に出る。三四郎池も、このアルバイト中に知ったところで あった。曜日、時間に制約されない、楽しいアルバイトであった。

 そのアルバイト娘の目に映った、東京大学教養学部文化人類学教室の「きらめく哲人たち」の群像を簡単に述べてみよう。1959−60年当時の同研究室は、右にマスコミの寵児泉晴一先生がいらした。我が家では、朝日新聞を購読していたが、その紙面に「マヤ文化展」の記事が載り、展示品が連載で載ったりすると,必ず出てくるのが、泉晴一のお名前であった。原先生はあまりマヤの物質文明とは関係ないようで、私を1度は泉先生に紹介してくださったが、その後 親しくお話することはなかった。先生は朝鮮の京城帝国大学卒で、大東亜戦争末期にはそこの教授であられた。先生のお弟子たちには、戦後にアメリカ留学なさった方たちが多いともうかがった。この方たちを戦中派+戦後派とすると、教室の左の雄は、戦時中ウィーンにいらした石田英一郎先生と岡先生、そのお弟子たちで、戦前派+戦後派若手グループといえよう。

 「石田先生は男爵の爵位を持っていらしたのだけれど、戦前に公安法に触れる活動で、何年かの禁固刑になり、爵位も返上されたんだ。そして、出所後、ウィーンに行かれた」

 石田先生のこととなると、原先生は実に嬉しそうに話された。楽しくなると、東京弁が出てくる。 かつての山の手でのくだけたしゃべり方であろうか、語尾に「・・さ」がつくのが特徴であった。 同じ東京育ちでも、下町出と自称なさっていた石井米雄先生は、お使いにならなかった言葉である。  石田英一郎教授の風貌も又、心に残るものであった。河童伝説を研究なさっているという教授はひょうひょうとした中に優しさがあり、品格がただよう方であった。1960年当時、60歳に近かったであろう先生の頭には、すでに毛がなかった。おびんずるさまのような感じである。弟子雀たちは、さえずった。

「寒くなるとね、先生は帽子をかぶって、教室へいらっしゃる。それが、ウィーンの高級帽子店に特注した山高帽なんだ」

 そのお姿をぜひ一度と願ったが、ついに見られず終いであった。

 後に、学習院大学文学部日本文学科の小高敏郎先生がICUで講義されるようになり、私も一般教養科目として、日本文学,日本の美についてのコースを受講した。大学からの帰り道、校庭内バス停で、車内で いろいろとお話をうかがう機会があった。学習院高等部の国語教師をなされたことのある小高先生は、原先生のより若い頃を良く知っていらした。原先生が「皇太子のご学友」として選ばれた方の一人であったことも、小高先生からうかがった。

 「さ」言葉は、大またでさっさと歩かれる原先生には似合うけれど、「聡明であられるが、おっとりと穏やかな皇太子さま」平成天皇にはそぐわない気がした。私の使う横浜弁は語尾に「・・・じゃん」が入ることもある。原先生が幾らくだけて「・・・さ」と話して下さっても、私は横浜弁で応じることはできなかった。

 原先生がオーストラリア留学に立たれた後で、ICU校内誌に「H君のこと」と題して、小高先生は学習院高校時代の原忠彦先生について書かれた文も、心に残るものであった。

   事務室で索引を作る以外にも、研究室での様々な会合に、原先生は誘ってくださった。定期的に出たのは月一度の青年人類学会であった。土曜日に開かれた。アルバイトが終わっても、その会には出たが、出席者は原先生の他には2,3名で、きまった顔ぶれであった。川田順三先生がフランスから戻られ、少し顔ぶれが賑やかになった。

 原先生は私がマリノウスキーの「西太平洋の冒険船乗りたち」を読んだことを知って、この会で話すように薦められた。あのマリノウスキーの英語だから、英語で話せばということで少し楽な気分になったが、会合での質問は日本語で、少しとまどったことを覚えている。原先生は、人前では褒めてくださったが、帰り道には結構辛い点をくださった。

 教室の若手グループの最年長は民俗学の大林太良先生で、戦後にでドイツで留学生活を経験されていた。大林先生がいろいろな雑誌に書かれていた小論文、随筆を通して、私はウィーン大学の民話伝播学を知った。民俗学伝播派といっても良いかもしれない。その系譜は日本では石田・岡両先生に始まり、大林先生に続いていた。 この方たちには、ヨーロッパのプロフェッサーという風格があった。ゲーテとかマックス・ウェーバーの著作を・・・日本語で読んで・・・想像した世界の雰囲気があった。

 お若かったけれど、風格のあった大林先生は、時々、若輩たちを食事に誘ってくださった。新橋だったか、ドイツ料理屋で、日独だったか、オーストリアだったか覚えていないが、ハーフの双子娘が歌って踊る店だった。横浜に帰らねばならない私はアルコールは飲まなかったので、失敗はなかったが・・・酔って、居眠りしていた末廣君の顔を思い出す。そんな席に原先生の顔はなかったから、私が誘われるようになったのは、原先生がオーストラリアに出られてからの事かもしれない。  川田先生など教室のヤング・ジェネレーションはアフリカ研究であった。その話は、原先生の後、ニューエル先生の助手になった山口昌男先生について書けたら、その時にしよう。

 2年生の秋には、アルバイトは終わった。まだ約束された報酬はなかなか支払われない。私を雇った金山助手がフランスへ留学してしまったので、払っていただけるあてはないと思っていたが、原先生のオーストラリア留学が決まったと聞いて、だめもとでと、勇気をふるって、原先生にお願いしてみた。驚かれたような先生のお顔を見て、催促するのではなかったと、舌ならぬ、臍を噛んだ。私は機会をいただいて、「大きな広い世界」を楽しんだのだ。どうして、こんな事を言ってしまったのか。でも、言わなかったら、「天下の東大」に媚びたようで、嫌な気が残ったろう。しばらくの時を経て、オーストラリアに出発前の原先生が私に一枚の小切手を下さった時には、こちらの方が驚いた。金額は1万五千円。約束された額であった。振り出し元は名称は忘れたが、どこかの研究所であった。

次回予告!

 インドの話はどうなったの・・・という問いにお答えしたい。

1960年夏から、長野県南佐久でニューウェル門下の農村調査が始まる。この調査の経験と報告が私をインドに結びつけたのだ。もう少し待ってください。次回は かならず、日本列島を出ます。

                                           レヌカー・M
 
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